原発には負けられない 息子の白血病死を告発する母

 

91年、中部電力浜岡原発の作業員だった嶋橋伸之さんが、白血病で亡くなった。享年29歳。
 母・美智子さん(74)は、それまで原発に疑問を抱くことなどなかったが、伸之さんの死を契機に、国と電力会社の責任を告発する闘いに立ち上がった。

 嶋橋美智子さんを迎えて、8月18日、郡山市内で、「嶋橋美智子さんのお話しを聞くつどい」が開催された。(主催は、実行委員会)
 美智子さんは、放射能に苦しめられている福島の子どもたちを守るために力になりたいと申し出て、この夏、郡山から北海道へのサマースクールに参加している。その出発を前に、郡山において講演を行った。

 以下は、18日の講演を中心に、関連報道を加えてまとめた。

白血病の宣告、壮絶な闘病から死まで 

孫受け会社で「核計装」
 嶋橋伸之さんは、81年春、横須賀市内の工業高校を卒業後に中部電力の下にある孫請け会社に就職した。
 中部電力の原発や火発の保守・点検を行う元請け会社が中部火力工事。その下請けが中部プラントサービス。さらにその下請け会社が伸之さんの就職した会社。

浜岡原発01
(中部電力 浜岡原子力発電所)


 伸之さんの仕事は、「核計装」(=原子炉内の中性子の密度を監視する計測装置)の保守・点検。浜岡原発の場合、核計装は、炉の下から挿入している。そのため、原子炉の定期検査のときは、原子炉の下にもぐり、装置を取り外して調べる。
 その作業は、頭から原子炉の水をかぶりながらやることになる。もちろん原子炉の水は高濃度の汚染水だ。だから被ばくしないわけにはいかない。
 伸之さんの累積被ばく線量は8年10カ月間で50・63ミリシーベルトだった。

嶋橋・中国p01
(原子炉の真下で計器類を点検する 浜岡原発)

白血病ってどんな病気ですか?
 美智子さんは、伸之さんが白血病だとわかるまでの経緯と、そのときの驚きと戸惑いを次のように話した。
 伸之さんは以前から、「だるい」「風邪を引きやすい」などの不調を訴えていた。
 しかし、原発労働者に義務付けられている定期の健康診断(電離放射線健康診断)では「異常なし」。だから、伸之さんは、自身の体調を、「独身で、酒を飲んだり、徹夜で麻雀をしたりしいるからだろう」と解釈していたという。とにかく、「医者が診て『異常なし』なんだから、おれは大丈夫」と思いこんでいた。
 たまたま美智子さんが風邪気味で町立浜岡病院に行く際、ついでにという感じで伸之さんも診てもらうことになった。
 すると、伸之さんだけが、「もうちょっと検査が必要」となった。紹介された浜松医科大医学部付属病院へ行くことに。
 医大で検査は受けたものの、伸之さんは、その結果を自分では聞きに行こうとしなかった。伸之さんとしては、「会社の健康診断で『異常なし』なんだから、大丈夫に決まっている」ということだった。
 代わりに、美智子さんが、検査結果を聞きに行った。

IMGP0708_convert_20110901181831.jpg(嶋橋美智子さん 8月18日 郡山市内)
 
 「そこで、『白血病です』っていわれたの。
 だけど、『へ? 白血病ってどんな病気ですか? でもガンじゃないんでしょう。ガンならガンってつくでしょう。違う病気でしょ』って立ち上がっちゃった。
 そしたら『いえ違います。血液のガンです』と。
 そう言われてもピンと来ない。『なに? 夏目雅子さんと同じ病気? 』ぐらいしかわからない。どういう治療法があるのか、静養したらいいのか、手術をしたらいいのか。何もわからない」。
 
膨らむ疑問
 白血病とわかってから、伸之さんは、最初の1年間、浜松医大病院に通院した。通院には、2時間半かかった。
 ところが、伸之さんは、通院の際いつも、年休をとっていた。
 美智子さんは、「ちょっと変だねえ。職場でケガをしたら、労災でしょう。白血病もそういうことではないのかしら」。
 美智子さんの疑問はそういうところから始まった。
 さらに、美智子さんの疑問は膨らむ。
「でも変ねえ。原発に勤めていて白血病になるというは、チェルノブイリに似ているねえ」。
 

卑劣な隠蔽工作
  疑問が膨らむ中、美智子さんは、伸之さんには言わないで、会社に、「息子は白血病ですけど」と告げた。
 すると、会社の態度は、「もう一を聞いて十を知るで、『これは大変だ』」と。
 さらに、美智子さんが、労災のことに触れると、会社は、それは困るという態度だった。そして、「入院費は会社で払います」とか、自分の骨髄の移植をするというやり方があるという話を会社にすると、「会社と病院が通じていて、あっという間に、400万もする器材も買って、担当の医者も決めるという素早さ」。
 会社は、伸之さんが、原発内の作業で被ばくし白血病になったということをなんとか隠そうとしていたのだ。

骨髄が採れない
 伸之さんは、自分の骨髄の移植という治療をやろうとして入院したが、すでに脾臓が腫れていて、骨髄をとれる状態ではなかった。
 そこで、やむなく血液を抜いて保存することだけを行った。それは、白血病が、血液の病気で、大量に出血するからだった。
 「本人は、骨髄を抜いたと思っていて、いつか骨髄液で治療してもらおうと希望をもっていたんだろうね。それができない理由は、家族の私たちだけは知っていたけど…」
 すでに手遅れで、抜本的な治療ができない状態だった。そして、日に日に状態は悪くなっていった。

80キロから50キロ
 血液の病気のため、全身のどこでも腫れてしまう。
 「顔の片側が腫れていたの。私は、『どうしたの? ケンカしたの? こんなに腫れて』と訊いてしまった。
 本人は『ケンカなんかしてないよ』という。
 『どうしたの? って訊いたりして、白血病のことを知らないからね。あとで考えたらかわいそうなことを訊いていた」。
 全身が痛くてたまらない状態。ベッドに触れだけで、振動で痛がった。
 歯茎からの出血も止まらない。ふいてもふいてもあふれてくる。血がにじんだ脱脂綿の袋がいくつもできた。そして、血のにじんだ脱脂綿の重さを量って、その分を輸血するということを繰り返した。
 伸之さんは、入院半年で、80キロあった体重は50キロ台に激減。

IMGP0715_convert_20110901182331.jpg 「私に甘えず、世話を焼くと怒っていた伸之が、亡くなる数時間前、ぎゅっと私の手を握ったんです。そして私の顔のマスクを一生懸命ずらそうとする。無菌室だからと元に戻しても、マスクをずらすのをやめなかった。最期に私の顔が見たかったんでしょうか…」 
 91年10月20日、白血病発症から2年で、伸之さんは亡くなった。享年29歳。

 

 

 

だんだん腹が立ってきて

医者も会社と一体
 あとでわかったことだが、白血病と診断される1年半前、会社の健康診断で、白血球数が1万3800個/ミリ立方メートルという数字を記録していた。
 成人の白血球の正常値は4千~8千個/ミリ立方メートル。異常に高い数字だ。
 現場作業員には、定期的な健康診断が行われる。白血球数に異常があれば、医者は、「異常あり」と判定しなければならない。そして、ただちに現場作業から外れ、治療を受けるような措置がとられなければならない。
 ところが伸之さんの健康診断の結果の判定は「異常なし」。そしてその判定のために、伸之さんは、体調不良を訴えながら、働かせ続けられた。
 医者が、会社と一体となっていたのだ。

労災にはしないでくれ
 伸之さんの葬儀の翌週から、会社が交渉にやってきた。
 「『労災に見合った同じような計算方法で2700万円になるから、あとプラス300万円で、3000万円をお宅にあげる。だから、労災はしないでくれ。労災なんていうのはめったに下りるもんじゃないから』と。
 『お金をくれ』ともいわないのに、向こうから『お金をあげる』というわけ」
 それで周囲に相談したら、「孫請け会社で金を出すというのだから、もらった方がいいよって」。
 美智子さんは、伸之さんが亡くなってから2カ月後の12月には、「はい、わかりました。受けとります」とサインをした。
 美智子さんは、サインした覚書に目を通した。
 「『甲が…、乙が…』と書いてある書類を読むと、結局、『労災はもらわないけど、3千万もらったから、もう労災はしないで、一切、文句はいわない、3千万を受け取ってこれで終わりにしてくれ』ということが書いてある。
 それを守っていた。
 だけど寂しい。『ああ、息子の命って、3千万円だったのか…』って泣いて。
 それに『一切の文句を言ってはいけない』とあるけど、どんな文句があるんだろう―とも考えた。
 まだわからないわけですよ。反原発でもないし、現場の仕事を知っているわけでもないし」。
  いろいろ思い悩む内に、美智子さんは、会社の黒い意図を見抜いていった。
 「会社が言っていることは、結局、『息子さんは、そんな放射線を浴びたわけではない。放射線を浴びたから白血病になったわけではない。だけど長男が亡くなってかわいそうだから、《みなし》で認めてあげましょう。労災とおなじような額をあげますよ』というここと。
 会社としては、労災を申請されたら、会社のボロとか、悪いことがばれてしまうから、それでお金で解決ということでしょ。それで3000万円をくれたわけ」。

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労災制度は労働者のためにある
 美智子さんは、息子さんの死、一人の人間の命を、こんなに簡単に、金で始末をつけてしまおうとする会社のやり方にやり切れない思いが募り、やがて労災申請の闘いに立ち上がっていく。
 「私がお金くれって言ったわけではないのに3千万くれて、でも3千万って人の命かとか考えて、たんだんと寂しくなって…。
 それで、私は考えたの。
 会社の仕事をやって死んだのだったら、会社からお金をもらって当然だと。
 だけど、労災制度というのは、労働者のためにあるものなんだから、労災をもらう方が正規なんではないか。会社からそのお金をもらう理由は、なんいじゃないかなと」。
美智子さんは、伸之さんの死後、会社の同僚や友人らに、伸之さんのことを尋ねて回っいた。しかし、やり切れない気持ちが収まるような話はなかなか聞けなかった。そういう中で、平井憲夫さん(原発の被ばく労働を告発した現場労働者 故人)を知り、さらに平井さんから、藤田祐幸さん(慶応大助教授 当時)を紹介される。
「『先生、原発っていうのはどういうところが危ないんですか? どんな風にして電気をつくっているんですか?』って、イロハのイの字から訊いた。本をくれるから、それを読んで、普通のおばさんには、わかないんだけど。
 それから、藤田先生に、『会社の仕事で死んだんだから、労災をもらうべきではないか』と訊いたら、先生は、『当然、そうだ』と。
 そして、平井さんに、『放射線管理手帳をもらいなさい』と言われて、そうかって」。

ウソが書かれていた放射線管理手帳
 美智子さんが、放射線管理手帳の返還を求めたら、なかなか返そうとしない。問い合わせてみると…。
 「『被ばく労働者って、手帳があるはずだからそれを返してくれ』っていったら、『いまちょっと訂正中だから』って言う。『訂正って、どういうこと? 言葉の間違い?』。
 そしたら本当に訂正中だった。東京に天下りのビルがあってそこで」。
 伸之さんの放射線管理手帳は、中部電力の下請け会社・中部プラントサービスが発行、その下請けだった伸之さんの会社で、在職中は保管されていた。ところが、伸之さんが亡くなってから、「放射線従事者中央登録センター」(東京都千代田区)に送られているという。
放射線業務に従事する者には、全国各地にある放射線管理手帳発効機関から放射線管理手帳が発行される。作業者は、この手帳を持参して、原子力施設で放射線業務に従事する。この手帳には、全国共通の中央登録番号が付番され、個人を識別する項目、被ばく歴、健康診断、放射線防護教育歴等が記載されている。
 原子力施設で放射線業務に従事した後は、その原子力施設から被ばく線量などが、放射線従事者中央登録センターの電算機に登録され、管理される。
 ―制度としては、こういうことになっている。
 伸之さんが亡くなってから半年後、漸く放射線管理手帳が戻ってきた。
 「はじめは全然わからなかったけど、読んでいるうちに、息子が10月20日に死んだけど、訂正が10月21日に7カ所もある。『なんで、死んだ次の日に訂正してあるの?』って」
 訂正は、赤字や印鑑で行われ、30カ所以上も被ばく線量などが訂正されていた。
「Yという印を消して、Nに訂正している。
 Yは、現場に行っていい。Nはダメ。
 息子は病気だから現場に行ってはいけないはず。Nにしなければならないのに、最初に書かれているのはY。それを死んでから、Nに訂正している。
 あるいは、『安全教育を受けた』と書いているのを消して、『受けてない』に訂正している。39度、40度の熱で苦しんでいるときに、浜岡で安全教育を受けたという判子が押してある。
 『どういうこと?』って思った。
 分からないながらも、分かる部分を見ていると、だんだん腹が立ってきて…」
 この杜撰さと不正に美智子さんは憤り覚える。
「本人は生きるか死ぬか、毎日、病院で苦しんでいるのに、放射線管理手帳の上では、元気な人間として扱われ、死ぬその日まで会社で働いていたことになっていた。
 その手帳は、本人も私たちにも見せないで、会社が保管している。
 本当は、自動車免許のように自分がもってなければいけないのに。
 会社の事務員が預かっているという形になって、本人や家族には、そんなものがあるということもあんまり知らせない」。

嶋橋さんの放管手帳(伸之さんの放射線管理手帳。YがNに書き換えられている)

 美智子さんは、抗議の行動に立ち上がる。
 「中部電力に、藤田先生たちとねじ込みに行った。
 村上労働大臣(当時)のところにも。『なんでこんなインチキをやるんだ』って。弁護士の海渡先生(海渡雄一 各地の原発関係の訴訟にかかわっている)と追及に行った。
 静岡の新聞では1面だけど、東京ではほんの2、3行。みんな隠されていた」。

克明な記録を残したノート
 伸之さんが亡くなって半年後、会社にあった遺品が、両親の下に届けられた。伸之さんの使っていた机の引き出しにあった、歯ブラシやタバコの残り、封を切った給料袋など。
 そんな中に、黄ばんだノートがあった。伸之さんは、生前、浜岡原発での作業の様子を書き留めていた。2冊は研修ノート、3冊は1988~90年の間の作業日誌。
「会社の日誌ではなく、自分の作業のことをメモにしていた。
 短い文章だけど、『こうやったけど動かなかった』とか、『今度はこうしてみた』とか。『何々交換をした』というのも、難しい言葉だけど、『こうしたものを何々交換と言う』と勉強して解説をしている。
 会社はそんな大事なものだと思っていないから、歯ブラシやタバコといっしょに返してきた」。
 美智子さんは、このノートを藤田佑幸さんに見てもらった。
 藤田さんは、そのときの驚きをマスコミに次のように語っている。
 「あれほど詳細な記録は見たことがなかった。言葉も出なかった。研修ノートには作業内容や装置の説明、用語集もあり、作業日誌には、いつ、どこで、どんな仕事をしていたか克明に書かれていた。
 それらの資料を突き合わせ、半年ほど分析に費やした。すると、何日もかけて装置の微調整を繰り返すなど、現場の状況がありありと浮かんできた。
 原発は、コントロール室からコンピューターですべて制御している印象を、私自身も持っていた。でも実際は、最も大切な整備や検査は、伸之さんのような下請け作業員の手に頼っている。そうしなければ、原発は動かない。
 自分の責任を果たすため、誇りを持って働いている人が、被ばくし続けている」

それならはっきりさせよう 
 美智子さんは、93年5月、磐田労働基準監督署(静岡県磐田市)に労災認定を申請した。
 労災申請を心に決めたときの心境を、美智子さんは次のように語った。
 「会社と交わした覚書に、『3千万もらったのに、また労災を申請したら、2つもらうことになるから、3千万は返してもらう』という条件が書いてある。
 私は、2つももらいたくてやるんじゃない。それなら、労災で、イェスかノーかがはっきりさせようと。本当に職場で病気になって死んだのなら労災が認められるし、そうじゃなかったなら労災は降りないのだから。
 それで、藤田先生と海渡先生、私と主人で、労災書類を出した。
 署名運動もはじまった。40万筆。リアカーで運んだ」。

法定限度と労災基準の乖離
 伸之さんの累積被ばく線量は8年10カ月間で50・63ミリシーベルト。
 年間にすると、約5・75ミリシーベルト。会社は、そんなに浴びせてないから会社の責任ではないという。
 藤田祐幸さんは、伸之さんの被ばく歴と、浜岡原発の運転状況を比べてみた。
 放射線管理手帳には、月ごとに被ばく線量が記されている。高い被ばく線量が記録されている月と、原子炉の定期検査時期とが重なっていた。
 原発は、原子炉を止めて、数カ月がかりで定期検査をする。定期検査の間の被ばく線量が跳ね上がっていた。年間被ばく線量は、入社5年目から5ミリシーベルトを超えて増加し、87年度の年間9・8ミリシーベルトがピーク。

 法令で定められた放射線作業従事者の年間被ばく限度50ミリシーベルト。それに比べれば、たしかに伸之さんの被ばく線量はかなり低い。
 しかし、労災申請を支援した海渡雄一弁護士は、「8年10カ月の作業、計50・63ミリシーベルトの被ばく線量は、労災の認定基準を満たしている。認められる自信はあった」。
 放射線被ばく者にたいする白血病の労災認定基準は、76年に労働基準局長通達として出された。①相当量の被ばく、②被ばく開始後少なくとも1年を超える期間を経ての発病、③骨髄性白血病またはリンパ性白血病であること―の3要件を定めている。相当量の被ばくは、「5ミリシーベルト×従事年数」と解説で明記している。
 伸之さんの場合、8年10カ月の作業なので、相当量の被ばくとは、約44ミリシーベルト。実際の被ばく量は、約6ミリシーベルト上回っていた。

 94年7月末、磐田労基署は申請を認め、「原発での被ばくと病気に因果関係があるとみられる」と判断した。
 しかし、この認定にたいして、中部電力は、「法定の年間被ばく限度50ミリシーベルト以下で、認定は、被ばくと病気に直接的な因果関係があることを意味していない」との見解を繰り返した。
 法定の年間被ばく限度50ミリシーベルトとは、会社の側の論理であり、殺人的な基準なのだ。そして法定限度と労災認定基準のダブルスタンダードに労働者は苦しめられているのだ。
 
原発に負けてはいられない

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 最後に、美智子さんは、福島第一原発事故によって放射能がまき散らされている現実に怒り、そして原発に負けてはならないと敵愾心を強く訴えて、講演を締めくくった。
「自然災害は、月日をかけて人間が頑張ったら復興できる。
 しかし放射能は、下手をすると人間が負けてしまうかも知れない。
 私はこういう辛い思いをしたから、もう苦しければ苦しいほど、原発に負けれてはいられないと思う。
 この辛い思いは、必ずどこかで取り返す。
 こんなところで人間は負けていられない。そのファイトということを言いたく、今日はきたんです」。

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★嶋橋美智子さんの著書 『息子はなぜ白血病で死んだのか』
1999年2月刊  技術と人間