ののはな日記 2012.7.12

 あなたに渡したいと思ってたの

逸子さんがそっと手渡してくれた本

やっと今日になって開くことができて

あまりの衝撃に、ただ ただ 泣いた

 

 

 

 

 

 

ヒロシマ連祷43-松本直治「火の墓標」より

   石川逸子の詩

「もう、僕、わかっているんだ、

死にたくなかったけど

もうさよならなんだ。」

 

この青年の死はずっと昔から知っていた

知っていたと言うことと

この事実がなにを教えてくれるかは

全く別の問題だった

目を開かないものにはなにも見えない

耳を塞いでいるものにはなにもきこえない

わかろうとしないものはなにも理解しない

 

きっと原子力ムラの人間は・・・

かつてのわたしのようにそうなのだろう

 

「僕」は松本勝信さん

「僕」は北陸電力社員で

69〜73年に日本原子力発電の

東海村に3年1ヶ月、敦賀原発に3ヶ月

働いただけで舌癌を発症

31歳でぼろぼろの骨になって死んだ

 

役人も原発の高級幹部も入ったことのない

原子炉で

にんげんが

にんげんが はたらいている

 

下の本はその父が息子の死因に疑いをもって書いた本

それが復刻されたのだ

是非この事実を

この父の涙をもう二度と

 他の人にも流させないために

 

この石川逸子さんの詩集「哀悼と怒り」を読んでください

ふたりの詩人の声をこころにのこしてください

 


 

【北陸中日新聞】 2011年8月1日

原発勤務中、がん発病

  「息子の死」告発  亡父の手記再版

 

被ばく問題に一石

 

画像故・松本直治さん

 原発が国内で増設され続けた1970年代、原発の安全管理業務に携わった長男が舌がんで死んだのは、被ばくが原因ではないかと告発したジャーナリストの故・松本直治さん(1995年、83歳で死去)の手記「原発死−一人息子を奪われた父親の手記」が5日、増補改訂版として32年ぶりに潮出版社から再版される。福島第1原発の事故で原発作業員の被ばくが問題となる中、原発の安全性に一石が投じられる。(松岡等)

 手記は雑誌「潮」に掲載された後、1979年7月に出版された。親交のあった作家、故・井伏鱒二さんが原稿を編集者に仲介するなど尽力し、その際に井伏さんが編集者らと交わした書簡やはがきが今年見つかり、改訂版に収録した。

画像再版される故・松本直治さんの手記「原発死」

 手記によると、松本さんの長男勝信さんは北陸電力社員で、69〜73年に日本原子力発電の東海、敦賀原発に出向。北電は能登原発(現在の志賀原発)を計画中で、勝信さんは若手電力マンとして「燃えていた」。

 勝信さんは両原発で、汚染強度の測定や、放射性廃棄物処理をする作業員の管理、教育にあたった。被ばく線量の合計は29.5ミリシーベルトだったという。敦賀原発で勤務中に舌がんとなり、74年に31歳で亡くなった。

 被ばくが原因ではないかとの疑念をぬぐえなかった松本さんは、日本原電や北電、放射線医学の専門家のほか、敦賀原発で働いた後にがんで死亡した作業員の家族を訪ね歩き、証言を集めた。

 79年3月に米・スリーマイル島の原発事故が発生。原発の安全性が問われた時期だったが、松本さんの追及に電力業界は因果関係を否定して冷ややかな対応に終始した。松本さんは、電力会社側こそ調べる責任があるはずだと告発する。

 闘病中の勝信さんとのやりとり、死後に家を離れた嫁や孫を失う松本さん夫妻の悲しみも織り込む。あとがきで松本さんは「病める原発への証言を綴(つづ)り続けた。『私の手記』というより、息子の『死の手記』」と結んだ。

 松本さんは元国民新聞(東京新聞=中日新聞東京本社=の前身)記者で、後に北日本新聞(富山市)の編集局長も務めた。広島原爆をテーマにした小説「黒い雨」を書いた井伏さんとは第2次大戦中、陸軍徴用の報道班員としてマレー半島に派遣された「戦友」。井伏さんは手記に序文を寄せ、その中の一文「放射能と書いて無常の風とルビを振りたい」を色紙に書き、松本さんに贈っている。

 井伏さんの手紙、色紙を保管する松本さんの姪(めい)の矢来千代子さん(金沢市在住)は、再版にあたり「手記は叔父のジャーナリストとしての強い使命だったと思う。原発について冷静に考えるべき時期でもあり、多くの人に読んでもらいたい」と話す。